* お話 *
お約束ネタ。イザークは過去も未来も現在もイザークだというCANONより。
>>> 転寝
午前3時半。初夏。
霧雨があがり、すこし、空気が湿気を帯びている。
いつものことながら、二つ目のいびつな月の存在と、じっとりとした空気。
彼が与えられた、この大学の一室の広いとは、あまり言いがたい研究室。
ドアの隙間から、少し灯りがもれている。
白衣を羽織り、衣擦れの音もなく、その灯りに吸い寄せられるようにして、背の高い影が入っていった。
真っ黒な髪、青白い顔、そして、眼鏡の奥の瞳は、何を語ろうとしているのか、
その男、アイザック・バトラーは、自分の友にして、ライバルであるウィリアムが
今日も自宅へは帰らず、この部屋で寝泊りしていることを
多少なりとも気になっていた。
「ウィリアム」
静かに品のよい声がその小さな部屋に響いた。
昼間は、あくまでもアルビオン貴族特有のポーカーフェイスで、感情はあまり表にださない。
発言は、きわめて理論的かつ、自分に対して絶対の自信がある。
いつも真摯であり、醜い姿はさらさない。
その彼がコンピュータの前でつっぷして眠っている。
いつもなら、少しの惰眠であっても、自分のこの小さな声に反応し、身体を起こすはずなのに。
さすがに疲れているのであろう。
寝顔を見るのは初めてではないが、
こういった、無防備な姿は貴族ゆえか、全くみたことがなかった。
その無防備な寝顔は、とても穏やかだ。
なんて無防備なんだ
口元が緩んでしまう。
この部屋で、この無防備な姿を見ているのは、この私だけなのだ。
アイザックはふちのない眼鏡を外すと、瞳を閉じる。もう一度、眼鏡をかけなおす。
そして、まじまじを彼の顔を覗き込む。
美形とは言いがたいが、品のよいつくりをした顔は、もって生まれた彼のお家柄だけではないだろう。
彼に近づき、その寝息を確かめる。
手指の筋肉が緩み、そのままにしておいたら、落ちて
ペン先がぼろぼろになるであろう、彼の愛用の万年筆をそっと手から外し、
机の上のふたを閉めようとして、はたと気がつく。
彼の口元が
小さく動いた。
それは、彼にとって、愛しい人の名前だ。
アイザックは眉根を少しゆがめ、その口元を読み取る。そして、その名を復唱する。
夢の中では逢瀬を楽しんでいるのであろうか。
窓からぽっかりと二つ目の月が見える。
「ウィリアム」
もう一度読んでみるが、どうやらおきそうもないようだ。
アイザックは、ウィリアムのその陶器でできた、灰皿にたまった吸殻をゴミ箱へと捨てる。
自分のシガリロと彼の煙草の吸殻がゴミ箱でまざりあう。
手にした万年筆でさらさらと、異国の文字を書き込む。
きっとこの男には、何かの記号に見えるかもしれない。
「心にも あらでうき世に ながらへば 恋しかるべき 夜半の月かな
・・・・・・・・・・・・ 三条院」
もう、失われてしまった、東の国の文化の言葉。
心ならずも、このはかない現世で生きながらえていたならば、
きっと恋しく思い出されるに違いない、この夜更けの月が。
静かに、万年筆を置くと、灯りを小さくし、部屋を後にした。
「よい夢を」
その声が聞こえたか、聞こえなかったのか・・・・・・。
fin
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