人の気配(正確には機械の気配)がないことで
目が覚めた。すでに時計は9時半をまわっていた。
明るい、紫外線をたっぷり含んだ日差しが
闇のような紺色の遮光カーテンの隙間から差し込んできた。

着替えをすませる。
女官たちがぎゅうぎゅうとコルセットを巻いた日々は
そう遠くない日常だったのに、今は、自分で身支度を
整え、鏡に向かい、方眼鏡をかけた。

病気のため、すこし輝きと量を失った金の髪を
なんとかまとめ上げた。
できないことではないが、不慣れで時間がかかる。
まるで子供のようだと鏡に映る自分を見て苦笑いする。
白い麻のブラウスのボタンをひとつづつかける。
小さなくるみボタンに施された薄紫色した刺繍をぼんやりとみながら
こんな小さなボタンに細工が施されていることなど
気がつきもしなかった。

手が冷たくてうまくボタンがかけられない。
外は初夏の日差しなのに。

そしておなかがすいている自分を思い出しキッチンへと向かう
家事などできるはずはない。

お湯をわかし、マグカップに紅茶のティーバッグをいれて
湯を注ぐとようやく手にあたたかみがもどってきた
お茶のことは、あえて考えないよう、なるべく安くて
不味いティーバッグを買い込んである。
沸かしたところで大してかわらぬカルキくさい水


リビングのソファに座り、マグカップを両手で包み込むようにして
持つ。手を温めるかのように。
自分自身を温める。
脳裏に焼きついたあたたかいお茶の記憶の糸が縦糸と横糸になり
一枚の布になりそうなところでチャイムがなった
モニタに映ったのは
鳶色の天使の顔
水色のストライプのシャツと黒いパンツ
手には茶色の紙袋を抱えている
にっこりと笑うその笑顔はどんな人間をも、魅了するだけの
美しい微笑。

    「こんにちは」
甘い声
ロックを解除し、招き入れる
    「こんにちは、カテリーナさん」
甘い声はディートリッヒ。
声すらも魅惑的だ
    「おはよう。」
朝の挨拶をする。同じように白い歯を見せて微笑む。
世にも美しき枢機卿と謳われたときと同じ微笑。

   「お腹すいたでしょ?今日は犬がいないし
    カテリーナさんは、なにもできないから、僕、ここへきちゃった」

テーブルの上に紙袋をおくと
「あければ」
ディートはキッチンに立ち、パーコレータで珈琲を煎れはじめた。

ポコポコという音がして、珈琲が噴出す

紙袋の中身はフィッシュアンドチップス
この国のジャンクフード
腐ったような魚、ワインビネガーがたっぷり

    「フォークとナイフは?」
というカテリーナの問いに珈琲をいれたマグカップを持ったディートは
あきれて一瞥すると
    「手で食べて」
マグカップを手渡すと向かい合わせですわる

カテリーナはマグカップを受け取る。
ディートの冷たい手とマグカップの熱さ、苦い珈琲の香
手についた揚げたポテトの油
はがれたマニキュアの爪
そして、目の前の天使の微笑み

 「何考えてるの?」
「あなたこそ」
会話は探りあいでしかない。

    「カテリーナさん?砂糖が必要?豆が少しこげたから・・・苦かった?」
    「いえ、平気です。美味しいわ」
静かに答えるとカップをテーブルにおいた。

私をカテリーナさんと呼ぶのはひとりだけでいいのに。
傍からみたら美しい二人なのに。
どうして、こんなにも明るい日差しが部屋を照らして初夏の匂いがするのに。
光のささない場所で茶色の水分を摂取して腐りかけた匂いのする。
揚げた魚を食べてる。

「あなたと一緒にいると、どんなに美味しいものであっても、どんなに不味いものであっても」

といいかけて口元に笑みを浮かべかみそり色の瞳は鋭利になる

「ねえ、その先は言わない。だいたい、ボタンがひとつづつ、ずれてるよ,
そのシャツ」


ディートは手を伸ばし、カテリーナの胸元を指差す。
彼は本当の笑みを浮かべた。薄笑い。

彼の手の甲の骨は魚の背骨に似ていた


20006/05/07