□ うたたね □
故郷の初夏とは違い、この街の夏の始まりはわかりにくい。
カテリーナは青々と茂ってきた芝生の上に靴を脱ぎ捨てて素足となる。
しずかに呼吸し、肌寒い空気を吸い込む。
朝方は確かに小雨が降っていた。しかし、もう晴れ間が
見える。
カテリーナは自室に日傘を忘れてきたことを思い出し、
後ろで、彼女が脱ぎ捨てた靴をそろえているトレスにいう。
「日傘を持ってきてくださる?」
トレスは衣擦れの音もなく身を翻し、もどってゆく。
この庭園の中庭には、彼女のお気に入りの場所がある。
小さなベンチ。大きな木の木陰。手入れの行き届いた美しい薔薇と花壇。
(そしてなぜか、野菜もなっていたりする)
といっても、彼女以外の人々も多数訪れる。
誰かしらいるのだ。
しかし、今日は、まだ、誰もきていないようだ。
ちょっとお散歩して、戻ってきたら、だれか来るかしら。
ここでだれかを待って語り合ったり、笑ったりする小さな時間が
彼女にとってどれほど永い一時か。
こんなにも穏やかでやさしい気持ちが溢れる。
穏やかに流れる空気と暑くなりだした気候。
木陰へと入り込む。
そして、カテリーナはトレスの後姿が遠くなるのを見つめながら、
芝生の上にゆっくりと腰を下ろして、手足を伸ばした。
ふと何気なく横を見ると、少し離れた日向に華奢な足が見える。
先客がいたようだ。近づく。寝息がする。
きめの細かいその真っ白な肌。無防備に横になって昼寝をしているのは、
人類の盟主エステル・ブランシェである。
「クイーン・エスター?」
声をかけるが、全く気がつかないようだ。
ドレスではなく、ほとんど下着に近いようなノースリーブのワンピースを着ている。
細い白い腕には、擦り傷のあとが消えていない。
それにしても、よく眠っている。
アベルの大事な女性。
「お疲れですのね」
肌寒いけど、少し日差しが強くなってきてよ。
それにしても、アベルは、あなたのこと、大事にしているのかしら。
ああ、でも、こんなこといったら、また、嫉妬の鬼といわれそう。
カテリーナは妹に話しかけるように、つぶやいた。
整った寝息を聞きながら、トレスを待つ。
「ミラノ公」
トレスが目の前にたっている。
白い木綿のレース仕立ての日傘を開くと、トレスはカテリーナに差し出す。
「そういえば、アベルはどうしたのかしら??」
エステルの鍛えられた腕を見ながら、エステルは、逆光のトレスを見つめる。
「・・・アベル・ナイトロードは、180秒前、厨房へ入っていくのを見かけた」
「まぁ、また、つまみぐいなのかしら」カテリーナは日傘を受け取ると
くすり、と笑う。
カテリーナさん、おなかがすきましたぁ・・・・・
アベルのそんな声が聞こえてきそうだ。
そしてふと、今は、その声が、この自分ではなく、エステルへと向かってるのかと
思うと、少しの寂しさを感じた。
目の前にいる、自分にずっと寄り添う男への思いとは別の思いが、ほんの少し残っていることに気がつく。
これじゃぁ、まるで鍋の底のおこげをしつこく、食べたがる、アベルのようね、と自嘲気味に笑う。
トレスは不思議そうに、カテリーナを見つめ返した。
そして、エステルの存在に気がつく。
「あれは、クイーンエスターでは?」トレスは言う。
「ええ、なにやら、お昼寝してるようね」
トレスに差し出されたかさをぐるぐるとまわす。
「会議の時間がせまっている。起したほうがいいと思うのだが」
トレスは、エステルの白い腕を一瞥すると、カテリーナの片眼鏡を見つめながら平坦な声で言う。
「・・・・・・・少しでも時間があったら、お休みしたいのよ」
起こすな、という意味だろう、まるでかばっているかのように言う。
「以前のミラノ公のようだ」
トレスは主の言わんとしていることを理解し、答えた。
ええ、そうね。と微笑みかえす。
本当に時間を惜しんで、仕事をしていた気がする。
残された時間がわずかだと思ったから。そして、アベルといられる時間は仕事をしているときだけだ、と思ったから。
目の前にずっといた、その男の存在を当たり前と思っていたから
カテリーナは差し出されたかさをそっとエステルの頭のほうへと置き、日陰をつくる。
そして、肩に羽織った自分のカーディガンを脱ぎ、そっと、身体にかけると、
「白い肌が日焼けしてしまうわ」と立ち上がる。
「そうね、会議に間に合わないと困るわ。アベルにここへきてもらいましょう」
いたずらっぽくわらうカテリーナの顔を見て、
トレスは、少し困惑した表情を浮かべる。そして、そろえた靴を差し出す。
靴をゆっくりと履きながら、カテリーナは
アベル、まだ、厨房でつまみ食いしてるといいんだけど・・・・・
と一人ごとのように言う。
エステルの小さな肩が規則正しく動いているのを確認するかのように、
もう一度振り返ると、トレスとともにゆっくりと歩き出した。
アベルはあわてて、口の周りをデミグラスソースでいっぱいにして、すっとんできた。
走りながら口元をぬぐう。
カテリーナさんが、真っ青な顔で言ってた。
エステルさんが中庭で倒れてるって・・・
私、てっきり、つまみぐいを怒られるのかと思ったのに。
エステルさん、このところ、会議が多かったし、過労でしょうか。医師を呼んだほうがいいのかな。
などと、頭の中はフル稼働している。
カテリーナの言われたところへつくと、日傘の下、あどけない顔で静かに気持ちよさそうに
眠っている女性がいた。
ああ、よかった・・・・寝てるだけだった・・・・・
っていうか、これ、カテリーナさんの傘と上着だ
アベルは安堵の息をもらすとともに、自分がパシリに使われたこと、
つまみ食いの途中だったことを思い出し、少しがっかりとする。
そして、あのカテリーナさんの青い顔は、ひょっとして、つまみ食いへの怒りだったのか、
と妙に納得して青ざめる・・・・・・。
お、怒っていたんだ・・・・・カテリーナさん・・・
主よ、カテリーナさんは慈悲深い人です、エステルさんにはちくりませんように・・・・・・でも、でも、
ああ、あのおこげ・・・・・・・・もったいないです・・・もう鍋は洗剤で付け置き洗いです・・・・
と、ぶつぶつ、言いながら、カテリーナが、きっとエステルへ耳打ちすることが
容易に想像できるので、震え上がる。
どっちにしろ、怒られるのだ。それは、カテリーナか、エステルかの違いなのだ。運が悪ければ同時か、時間差で叱られる。
十字を切って、あきらめたようなため息をつく。
そして、アベルは、エステルのそばにひざまずくと、日傘を閉じた。
エステルをゆっくりと抱き起こし、いつもの声を響かせる。
「エステルさん、起きてください。お昼寝は、もうおしまいです」
大きな手のなかでエステルは、ゆっくりと、その長い睫を瞬かせて目をあけた。
2005/11/29修正