くちづけを交わす話

 童話と神話は紙一重なのだろうか。


林檎

白い無機質な部屋。
分厚い壁。
防音と銃弾も通さぬ硝子に、パスワードでしか入れないオートロックの
扉。重たすぎる。

となりでは目をさまさない人がいる。
訪れる見舞い客のためだけに
作られた、この音のない白い部屋で
パウラは窓辺に椅子を寄せて外の景色を見つめていた。

ロンディニウムの空は
なんてこう、鉛色で重たくて、雲と雲の隙間から晴れ間が見えるのに、
雨が降り出しそうなんだろうか。
曇っていて遠くが見えない。
気持ちまで重くなる。
窓にうつっている自分の顔も、灰色をしている。


 「副局長」

音のない部屋にいつものように、衣擦れの音もなく
濃紺の制服を着た青年が立っていた

 「ただいまもどりました」

マタイは静かに挨拶をした。
音は吸収される。
パウラは窓辺からマタイの目元へと視線をうつし

 「ご苦労さまでした」

とねぎらう。

 「これを」

マタイの手には真っ赤な林檎があった。
そういい、簡易キッチンへと立つと、林檎を洗い
ポケットからアーミーナイフを取り出すとするりするりと
むき出した。
小さな皿に六つに綺麗に置かれた林檎を
パウラはつまんだ

マタイはそんな彼女の全く表情のない顔をみつめて
ああ、絶滅地帯に存在したと言う「能」という舞台でかぶる
マスクに似ていると思った。
文献でしか読んだ事はないが、些細な手指の動きや
マスクの翳りで、笑ったり泣いたりするように見えるという

女性にしては大きな手で林檎をつまみ、口に入れる姿を見ながら
彼女の口元がほんの少し優しく動いたことを見逃さなかった

「綺麗だ」と誉めるにはあまりにも簡単すぎる


「禁断の果実を食べたことで楽園を追われた二人」
楽園は果たして楽園だったのだろうか

この血で塗られて、薄汚いしかし、快楽や、感情は
存在する、ここが楽園なのだろうか。
なによりも、果たして禁断の果実は林檎だったのだろうか。
マタイはまるで散文を読むかのように
つぶやく。しかしその声も壁に吸収されてしまう。


パウラは言いながら、
 「ところで、毒なんて入っていないわよね、マタイ」
いつものように、つまらない冗談を言う。
そうだ、彼女はここ、ロンディニウムへ来て、少し変わった。
本当につまらない冗談を言うようになった。


 「あああ、それならば」
パウラは全く別のことを考えていたようだ。
それは子供のころ、女の子なら、誰でも読んでいる童話だ。
マタイは自分も林檎をかじる
しゃりっとした歯ごたえ。甘酸っぱい味が口の中に広がる。

 「毒が入っていたら、私もあなたも、ここで倒れていることでしょう」

といい
パウラの手をとると、彼女の灰色した頬に口付けした。
マタイの細い唇がパウラの体温の低い、冷たい頬にほんの少しだけ触れた
 
 「あなたは眠ってはいませんから、起こす必要もありません」
耳元で小さくつぶやき、部屋を退出しようとする


 「そうね、毒がはいっていたら、私たちは目覚めたときに、
  イチジクの葉で腰を覆わなければならない」

パウラは足早に部屋を出ようとするマタイの背中に向けてそうつぶやいた
マタイは振り向き、その細い目を少し見開き、にこりと笑うと
静かに扉を閉めた。